直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)オンラインブックダウンロード

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

によって 小林 秀雄


3.6 5つ星のうち(28人の読者)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)オンラインブックダウンロード - 内容紹介 本質を射ぬく目、いわゆる「直観」を養う方法とは何か。類い稀なる慧眼の士、小林秀雄が各界の第一人者十二名と語り合う中に、そのヒントは立ち上る。思考停止を招く「○○主義」、芸術作品を曇らせる浅薄な「知識」、空論化する「弁証法」……。文学・絵画・演劇といった「芸術」、哲学・思想・科学といった「論理」、そして人間力といっていい「教養」。小林秀雄の直観を探る格好の対話集。 内容(「BOOK」データベースより) 本質を射ぬく目、いわゆる「直観」を養う方法とは何か。類い稀なる慧眼の士、小林秀雄が各界の第一人者十二人と語り合う中に、そのヒントは立ち上る。思考停止を招く「○○主義」、芸術作品を曇らせる浅薄な「知識」、空論化する「弁証法」…文学・絵画・演劇といった「芸術」、哲学・思想・科学といった「論理」、そして人間力といっていい「教養」。小林秀雄の直観を探る格好の対話集。 商品の説明をすべて表示する

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)の詳細

本のタイトル : 直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)
作者 : 小林 秀雄
ISBN-10 : 4101007098
発売日 : 2013/12/24
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 21.48 (現在のサーバー速度は22.65 Mbpsです
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小林秀雄著『直観を磨くもの』小林秀雄の文章は、あとでじっくりと効いてくる薬みたいだ。以前、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」という文章を読んで、気になって仕方なかった。氏の生活はただの人のところがある。酔っ払って、電車の線路から落ちて危うく死にかかった話や、小林のお母さんが新興宗教にのめりだし、自分も親孝行のため、母が生きている間だけ、同じ宗教に入信した話。戦後、家に泥棒に入られたり、強盗までが入って来て、強盗と人情噺をしたなど。昔、読んでわからなかった事が今になって、ああそうか、と思える文章もあった。この本は、福田恒存や三木清、湯川秀樹、大岡昇平など、大人物との対話篇になっている。そんな中で面白い場面は1「会議は井戸端会議の延長だね。寺田寅彦さんは教授会が多いのに困窮して、教授会の席上で研究をすることにした。タバコを喫って、灰皿を置いて、ブッとやる、その煙の渦巻の観察を教授会ではすることに決めて、黙って煙ばかり吹いていた」と。2「福田恒存君がどこかで言っていたが、大工さんが仕事場へ行って、先輩の年よりの大工さんと一緒に仕事をしていて、小がんなを忘れて来たんだな。じいさんに、ちょっと小がんなを貸してくれ、と言ったら、あいよ、と言って、貸してくれた。すると、その時に妙な表情をしたっていう。そのじいさんの大工がね、ニヤッと笑って妙な顔をして見たという。それから後でね、その時にじいさん、まるで女房を貸せって言われたような気がしたんじゃないか、ということに思いあたるんだなと。すると、借りた大工はあまりにも恥ずかしくてたまなかったので、地面を這って歩いた」と。この文章を読んで、感じたのは、人と対面した時の表情をよく観察すると、以前、こう表情にどこかで出会ったな、と思うことがある。この表情は、あの絵の表情だとか、この人形の表情だとか、上司の怒った感じだとかを思いうかべてみてはどうだろう。ほんの少しでもユーモラスな人生が送れるのではないか。3「僕の家に泥棒が入った。原形嘆願運動ということで、減刑嘆願書を出してくれということで、お礼に泥棒がまたもや僕の家に来た。家内が出て、どなた様ですかと言うと、「こないだお宅に這入った泥棒でございます」と。次に、また、別の強盗が小林秀雄の家に這入った。あの頃の強盗はすれていなかった。人がよかった。短刀でほっぺたを叩かれたが、その短刀がぶるぶる震えている。こりゃ新米だ、あわてたら大変なことになると。金を出してだんだん話していくと、帰る時分には、こっちが煙草を咥えるとライターで火をつけてくれたね」と。4二度読める本と一度しか読めない本の違いは?「深刻な経験をした人は、経験というものを買い被るね。買い被って馬鹿になる人の方が多いのではないか。従って文学を甘く見るんだな。経験の方が激しいから、それに頼り過ぎるんだね。そう言う人の書いた著書は面白いが、二度は読めんという処が特徴だよ。何度も読めるというのは何だろね。小説なら何度でも繰り返して読めるがね。ドストエフスキーがこんなことを言っていた。「自分は人生は簡単だと思ったが、経験を重ねるに従って、人生は複雑なものだ」と。複雑で大事なのは思想の方だ。人生は二度読めない。二度読めるのは思想です。二度も三度も読めるのは、人生はもう沢山だ、というものがあるんじゃないか。面白いものは一応面白いと思うけれど、二度はもう厭だろう。結局、詩がないと、二度読まんということになる」と。僕の経験から言うと、ハウツウ本や現代国際情勢などの本を読み返したくはない。その時は面白いが。反対に、その時、何が書いてあるかわからない、だから、もう一度読みたい本は、今読んだ小林秀雄や福田恒存、三島由紀夫、山崎正和など、少し難しいなあ、と思える本になる。5眼力を養うには?「文学は西洋ものを尊敬している。自分の為になるもの、読んで栄養がつくものは西洋人のものです。何と言っても近代文学は西洋の方が偉いです。しかし、物を見る眼、頭ではない、視力です。これを養うのは西洋のものじゃダメです。日本人は日本で作られたものを見る修練をしないと眼の力がなくなる。頭ばかり発達して。例えば短歌をやっている方は、日本の自然というものを実によく見ている。眼の働かせ方の修練が出来ている。西洋風な詩を作る詩人のものを読むと、みな眼が駄目です。頭だけがいい」と。西洋の詩や小説を読んでも、どれだけわかったか、疑問に思う。観る眼を養うには、俳句や短歌が最適のようだ。6現代に関心を持ちすぎると、いい仕事は出来ない?「セザンヌは、死ぬまでまっとな職人で押し通した。まわりを見まわす事はない。考えているのは、かんなのことだけだよ。死ぬまでそれだけですよ。そんなもんでは、現代ではもうだめだ、とピカソは考えた。回りを見ているということは、現代を意識しているということなんですね。セザンヌは特にいい絵を描き出してから、世間なんかと何の関係もないんです。弟子もなし、友人もなし。世界の情勢も、フランスの情勢も何にも知りはしなかった。全然引っ込んでいて、画は出来上がった。そういものがどうして全世界に訴えるのかね。実に不思議なことだ。現代に関心を持てということがよく言われるが、現代の日本に暮らしていて、この言葉の意味合いと言えば、新聞雑誌をよく読めという意味ではないか。それに気が付かずに、そんな言葉を使っている奴も、ぼくは馬鹿だと思っている。近代人の弱さは、新聞に出ていることは嘘が書かれてある。しかし、誰でもそれを信ずる。近代人はものにぶつかって究めることが少ないわけだ」と。小学生の頃から、学校で新聞を読め、と教わった。特に朝日新聞の天声人語を。教師は大変な罪を犯しているのではないか。現在、新聞やテレビで情報を取る時間を別の詩や小説、古典などにあててみてはどうか。7教育とは?「教育というものは、厳格な訓練だと思う。教育の方法なり、目的なりが教師の側に確立されていて、それを弟子に仕込むというのが教育の原理でしょう。個人の尊重ということは、一般的な道徳原理でしょう。教育原理ではない。教育の結果、生徒の個性を伸ばすことができたら、それは結構なことだが、先ず個性を伸ばそうとする動機が教育者の側にあったら大変なことになりはしないか。封建主義の教育は個性を無視したと言われる。厳しさのない個性尊重教育なんて不良少年を製造するだけです。教育者は教育の眼目は統制と訓練だということを悟るべきでしょう」と。現代は、体罰を嫌う時代になった。個性を伸ばそうと、やたらと言い出した。暗記は駄目だと言い出した。しかし、実際は、日本の生徒の知的レベルはどうだろう。本屋に並んでいる本を見ると、ハウツウ本や誰にでもわかるような小説の類が多いのではないか。反対に、岩波文庫、古典は低迷を続ける。現代の著者が振るわないから、十年前や二十年前の著者の本が再度、出版されることが多くなった。これも、現代の教育に問題があるのではないか。8今読んでいる作者に会いたいなら大した本ではない?「大体、作家に会ってみると、その作品よりも人間の方が面白い。たくさんのものを表現している。これは、普通のことですが、作品を見れば人間なんかも会いたくないところまで来ている作家は大作家ですね」と。自分にとって、嫌な考えを述べたり、わからないことを言う人に会いたくない。しかし、自分の薬になると思う。9いい作品は向こうから見てくれと誘ってくる?「壺の姿は、大事なものは大事に取っておいてあげるから安心し給えという、そう言っているような姿に見えるんだ。向こうから語りかけてくるんですよ。こっちから、私が意味を付けるわけではない。向こうから何か教えてくれるんだよ。これは博物館では経験できない。妙な言い方をするがね、壺を見るのではなくて、壺から眺められるという経験が、壺の姿を納得するコツみたいなんだな。近頃、小金をためた金持ちが、私立美術館をこしらえる。税金逃れて文化事業できるから、流行する。しかし、博物館に入ってしまえば、みんな死んでしまう。ガラス越しに、名札をはられて、曝し首のように並んでいるだけだ。文学もそうじゃないか。古典を読まなければならないというが、ちっともそうはならないじゃないか。結局、自分の方が古典よりえらいと思っているからではないか。万葉集をよく読んでいれば、万葉集というものは壺みたいになるでしょう。そうすれば、いろいろなことを教えてくれますよ」と。本屋に立ち寄って、この本を読んでくれ、と思う瞬間がないだろうか。ぺらぺらと立ち読みして買ってしまったという経験がある。それに近いのだろうか。10作者にとって聴くとは?「エリオット曰く、「詩劇におけるセリフは、観客が芝居を見に来て詩に感心するんじゃない、詩なんてものは一行もがまんして読んでいられないような人が芝居へ来て、そのセリフを聴いて、そのセリフが芝居の後でも日常生活でも生きているものでなければいけない。落語だって、話術の生命は物語を追ってるんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょう。何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつの声の音楽なんだよ。そいつを聴いて楽しんでいるわけだな。演奏会というものは、あれは一種の劇場ですからね。観客がいる。雰囲気がある。演奏家が見える。拍手がある。いろいろなことがある。そんなものがみんなに心理的に影響されている。あそこで聴こえてくる音は、いい蓄音機で聴く音よりは、もっと悪いかもしれない。だけどよく聴こえる。それはみんなその時の身体のコンデイションだね。だから、美学というものは社会心理学になるんだな。音は悪いが、僕が初めて音楽を知ったのはよその家の音なんです。今だって、どんなつまらない蓄音機だろうが、よその家で鳴っている音楽はわかる。自分の家で聴くと駄目です。邪念が入る。音楽以外の事を考えてしまう。楽音だけを上手に出すようになれば、音楽として聴く判断力がお留守になるんだ。ハイドンを聴こうと思うからハイドンなんで、雑音をとったらハイドンになると思って、雑音をとってもハイドンにならないね」と。或る程度の雑音がある方が読書も捗る。図書館で読んでも、すぐに眠くならないだろうか。マクドでコーヒーを飲みながら、横の人の雑談が聞こえるぐらいがちょうどいいように思うが。11現在は空虚の時代?「文士が流行らなくなると、寂しくなって、憂鬱病にかかる。それは、手前がないからさ。結局、自己の紛失だ。自己を紛失するから、空虚なお喋りしかできないエゴイストが増えるんだ。自分が充実していれば、なにも特に自分の事を考えることはない。自分が充実していれば、無私になるでしょう。外国には、好きなものを夜もろくろく寝ないで、自分の追究するものを見失わないで持っている、そういう学者がいる。日本にはそういう人はいない。こう大学がたくさんできると、学者ばかりでね、勉強すら大して出来ないだろう。だから、出来ない学生を教える程度の事しか知らないんだ。そういう連中のものを読んでみるとそれは単なる手段なんだな。未来とは「いまだ来たらず」という意味でしょう。来るものが何であるか、今分かっていたら、そんなもの未来じゃない、それは現在の一側面に過ぎない。そして、それが今の未来学の正体なんですよ。未来学なんという大げさな言葉の発明は、その人の現在の空白を証ているようなものだ。未来を考えるより外に、何にも自分の心を充たすものがないというのが真相だ。計画するのはいい。だが、これを学と言うのはおかしい。現在は空虚だから、未来学なんかに駆られると言っているだよ」と。毎年、今年で中国崩壊するとか、30年後、日本はこうなるとか、そういう類の本が売れる。しかし、実際、どれだけ当たっただろうか。また、大学の先生が新書版をたくさん書いているが、小学生にもわかるような書き方で、文章に品位が全く感じられない。作家の五木寛之氏も鬱病になった、と書いてあったが、やはり、この空虚感には立ち向かえないのだろうか。12第一次世界大戦の方が第二次世界大戦より恐ろしい?「第一次大戦は比較にならぬくらい第二次大戦より悲惨だ。戦争の死者の絶対数の比較などとは、全く異なるカテゴリーに基く。思想なんだ。第一次大戦では、機関銃や毒ガスの未知の火器は、これらを使ってみないと分からない凶器だった。第二次大戦の原爆を結びとする今度の大戦のように、いくら残虐でも予想された戦禍より恐ろしい」と。あらかじめ、予想された死は怖くないのかもしれない。現に、特攻隊は死が確実視され、腹が座っていた。しかし、予想されない死があると、人間はいたたまれなくなるという事か。13歴史とは?「歴史を読むとは、鏡を見る事だ。鏡に映る自分自身の顔を見る事だ。誰もがそれを感じているのだ。感じていないで、どうして歴史に現れた他人事に、他人事とは思えぬ親しみを、面白さを感ずる事が出来るのだ。歴史の語る他人事を吾が身の事と思う事が、即ち歴史を読むという事でしょう。本居宣長は歴史研究の方法を、昔を今になぞらえ、今を昔になぞらえ知る、そのような認識、あるいは知識であると言っている。厳密な理解の道ではない、慎重な模倣の道だというのだな」と。自分が歴史の登場人物になったら、今の自分の危機をどうするかと思いながら、比較するのも面白い。

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